タクシーは「公共交通」なのか?

 

過度のクルマ依存に疑義を申すとか、脱・車社会だとか言うと、じゃあ歩けない人や障害のある人はどうするのだ?という声が聞こえてきそうである。

既に、高齢者の免許返納が叫ばれる中で代替手段の確保は、急を要する議論となっているし、交通手段の在り方として考え続けなければならないテーマである。

 

よく、免許を返納すると足が無いという話を聞く。それが免許返納に二の足を踏ませるという理屈はよくわかる。特に地方になればなるほど、バスの本数は減って、とてもじゃないけど車の便利さからの落差が大きすぎて、免許返納なんて絶対無理、となってしまうのだろう。

 かといって数人しか利用者がいないのに一時間に何本も走らせろとバス会社に言うのも無理がある。

 

 

そこで思いつくのが、タクシーを活用してはどうか?と言う事である。

 

 過疎地の場合、

・乗るか乗らないか解らないルートにも走らせるから無駄がある。

・乗る人も人数も限られているので軽自動車で運行しても良いのだが、公共交通である以上、突発的な集団乗車にも対応できなければならないのでそこそこ大型車にならざるを得ない。

 

と言う辺りが過疎地での公共交通維持の難しさの理由だろう。

 

その点タクシーは、時間に関係なく、ルートも関係ないので、利便性は高いし、車両も小型の物でよい。なにせ個人タクシーがあるくらいだから、維持はしやすい。タクシーは言わば「運転手付きマイカー」と言っても良いだろう。

 

過疎地でタクシーを活用すれば、免許返納に二の足を踏む高齢者が減り、高齢者から脱車が進んでいくかもしれない。そうして行くうちに、不便なバスの利用者も徐々に増え始め、バスの本数も増えていくのではないだろうか。

 

もちろん、バスに誘導するには、公共交通機関として真っ当な料金設定である必要はあるが、その範囲内で、高めに設定するなどの工夫も必要だろう。

 

公共交通が充実した都会でも、タクシーが公共交通機関として活用される意義はある。交通権を保障する手段ということである。

 

筆者はよく教会に行く。

牧師先生が祈りの中で、「病気などの様々な理由で礼拝に来ることの出来ない人もいます…」と言う事を毎回言われる。

 

病院などは福祉事業者の送迎とか、病院の送迎車もあるだろう。しかし、教会の礼拝に寝たきりのひとが来ているのを見たことがない。きっと寝たきりの信徒がいるはずなのだが。信仰を持つ人が教会に行けないなんて、信仰心を持っている人ならその苦痛は理解できるだろう。

 自力で電車やバスに乗れない人はいくらでもいるだろう。目、耳の不自由な人もハードルは高いはずである。そしてそういう人たちは当然車を運転できない。

 

 タクシーを公共交通機関として位置づけるなら、低所得者などの社会的弱者が利用する際の、運賃の負担軽減策もとることが出来よう。

 

 

 しかしである。

 

 

現状ではタクシーを公共交通機関とは認めたくない。なぜか?

 

タクシーの運転手やタクシー会社に安全思想があるか疑わしいからである。

 

巷のタクシーの運転を見ていると、恐ろしく乱暴であり、我こそは路上の王様と言わんばかりであり、自分たちはプロなのだから自分たちの運転が正しいと思っているようにも見える。自転車で車道を走っていても警笛を鳴らす輩、幅寄せする者、都会の真ん中の人通りの多い場所でも平気で猛スピード。はっきり言ってめちゃくちゃだ。

他の公共交通機関の運転手からすれば、とてもプロとは思えない。

 

そう、プロの運転士というのは、嫌と言うほど安全意識を植え付けられている者だ。

 

そう意味では、タクシーの運転手はプロではない。

 

そもそも自動車というシステムは安全度が著しく低い。

鉄道と比べれば、鉄道は

・閉そく方式によって同一区間には他の列車は走れないから閉そく違反さえしなければぶつかりようがない

・線路に人が入れないルール、社会通念、設備

・脱線さえしなければレール以外の所へ進入し得ない

 

対して車は

・運転者一人の注意力だけが安全の担保

・オープンロードの混合交通

・ハンドルによって自由に進路が変わる

 

つまり、人間の注意力にかなり依存したシステムなのだ。なのに鉄道の運転士の安全管理は厳しく、タクシーに安全思想など皆無。あべこべなのだ。

 

自動車運転手にこそ徹底した安全教育が必要なのである。

 

 

タクシーを公共交通として位置づけ、活用するには、タクシー業者の意識改革、安全管理の徹底、指導が絶対条件である。

 

・タクシー会社への国交省運輸局の、鉄道並みの介入・安全管理・指導

事業用自動車事故調査委員会運輸安全委員会に編入し、タクシー事故の調査分析を徹底する

 

 

タクシーは公共交通なのか?と言う問いへの答えは、今はNO、いつかはYES、で   ある。タクシーに安全思想が定着し、安全管理が行き届かぬ限り、公共交通にはなり得ないのである。

 

車優先社会、ここに極まれり

 

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最初にこの看板を見た瞬間、何のことかよく解らなかった。

しかし、すべての横断歩道を見て理解した。

 

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至極簡単なことだった。全部の横断歩道が押しボタン式なのだ。

 

現場は県道と国道が交わる三叉路。県道と言っても、豊田市を横断する道路故に交通量は非常に多い。

以前から当ブログで指摘しているが、公共交通の発達した大都市圏以外の都市は、車依存が極端だ。現地も例外では無く、歩いている人や自転車はほとんど見なかった。

なぜこの交差点がすべて押しボタン式なのか、理由は簡単に推測できる。

 

横断歩道を渡る歩行者がいないから、歩行者信号を青にする必要が無いのだ。

 

車依存社会、ここに極まれり、という感じだ。

 

押しボタン式の歩車分離信号であるので、安全ではある。

ただし、皮肉なことに安全なのは横断歩道を渡っているときだけだ。周辺の道路には歩道も路側帯もほとんど無い。あっても肩幅くらいで、ダンプが頻繁に走るのでものすごい恐怖を感じる。

 

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正月に、紀伊半島奥地のいわゆる「三桁国道」を車で(諸事情で不本意ながら)走った時、こんな超田舎に必要なのかと言うほど立派に整備された区間があったが、ほとんど歩道が無かった。

 

人々の車依存が進み、また一方ではクルマ一択前提の道路作り。もうすでにクルマ以外、移動の選択肢が無いのだ。

そしてこの押しボタン式の歩車分離信号。歩行者がいないから、必要なときだけクルマを止めれば良い。どうせ歩行者なんかほとんどいないんだから押す人もいないだろうと言わんばかり。きわめて消極的なプロセスで歩車分離信号が実現されているのは複雑な気分である。

 

押しボタン式の横断歩道自体は珍しく無い。

あれを利用するとき、妙なプレッシャーを感じる方は、筆者も含めて少なからずおられると思う。他にも横断歩道を渡る人がいればまだ良いが、自分一人が渡るために信号を切り替えるという所に、なんとな~く申し訳なさを感じるのである。(歩行者の権利を訴えているくせに情けない、と自分では思う)

 

普通なら押しボタンなどつかない交差点の信号が押しボタン。車社会に疑問を感じて生きている者の感覚では、なんとも不幸せな事だなと思う。

 

車優先社会、ここに極まれリ。

 

 

名古屋市にできた理想?の道路訪問記

名古屋市北東の守山区のさらに外れにある吉根地区。いわゆる郊外の新興住宅地だが、ここに「都市計画道路志段見線」という、自転車歩行者専用道路がある事を最近知った。

現在は、吉根地区から北東の志段見地区までの約3kmが完成しているが、さらに北東の東谷山の麓までの全長5kmが予定されている。

 

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西端の道路の始まり。ガードレールで完全に隔離されている。道幅がかなり広い。幹線道路の一車線分より広そうだ。そしてここにはクルマは来ない。

 

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吉根地区は典型的な郊外の住宅地である。その住宅地の至る所に、一般道路との接続口がある。自転車歩行者道なので当然バイクは禁止だが、この柵ではルールを守らぬ者を遮ることは出来そうに無い。

 

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少し進むと、センターラインが引かれ、自転車と歩行者を分ける表示があった。

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気になったのが、この道路への住宅からのアクセス。戸建て住宅では裏側に門がある家もあるがそれは少数派である。家からは直接この道路に出ることが出来る家は少ない。特に集合住宅ではゼロだった。普通の道路の感覚からすればおかしな感じがする。隔離された空間という印象を強く受けた。まるで、自動車で言うなれば高速道路のようである。

 

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ここはメインの通りでは無く、少しそれた場所であるが、何とも贅沢な幅の取り方である。

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守山イオンへも直通。左写真の左奥に駐車場があり、クルマ利用者は皆ここを通って店内へ向かう。この歩行者と自転車のためにあつらえたと言う感じの入り口がうれしい。

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猫ものんびり。車にひかれる心配は100%無い。

 

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北側より守山イオンを望む。一番の幹線道路、国道155号、通称竜泉寺街道へのアクセスも考えられている。

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各一般道への接続。まさにジャンクション。高速道路のようだ。

前述の、集合住宅からのアクセスが考えられていないことも合わせると、本当に一本の隔離された高速道路のようである。

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下志段味小学校付近。学校の裏門がこの道路とつながっており、子供たちはクルマを気にすることなく下校出来る。ちょうど下校時間だったが、子供たちはみんな、無邪気さ全開で帰って行った。この、子供たちがクルマに脅かされずに帰るという光景、ちょっと感動的ですらある。

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「人道橋」。もちろん人が通る道だから人道橋と名付けたのだろうが、車の脅威から守られていると言うことを考えると、「人道」という部分が浮き出て見えた。この道路自体が「人道的」なのである。

 

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所々にかかる跨道橋、そして橋の柵やご丁寧に遮音板のようなものまである。なかなか立派な作りである。この遮音板は横の家に対するものだろうか?特に騒音を発するものは無いように思われるが・・・

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北東の終わりの部分。この先は東谷山の麓までの約2kmが延伸される予定とのこと。

民家が建っているが、本当に伸ばせるのだろうか。何事も予定は未定である。

 

それにしても、歩いていて非常に気持ちいい道路である。車を気にしないで済むと言うことは本当にリラックスできる。栄のホコ天も同じような気分になったのを思い出す。ここは典型的な新興住宅地であって、もっと言えば田舎である。しかし、栄、金山、名古屋など、名古屋市中心部ほどこういった道路が必要なのでは無いだろうか。複数車線の幹線道路が南北に走るように、自動車を排除した道路が幹のように走れば、そこを通るときだけでも、安全・快適に歩き、自転車に乗れるのでは無いだろうか。すべての道路で車からの被害を防ごうというのは、自動運転が完全に実現するまでは無理がある気がする。まるで高速道路のようだと述べたが、このような完全隔離道路が幹のように整備されれば、少なくともそこを通るときだけは、安全が確保される。ただし、このような道路を市の中心部で整備しようとするならば、車道の削減、若しくは車両通行止めなど、自動車の利便性の後退は避けられない。トヨタのお膝元名古屋ではなかなか難しいだろう。外れとは言え、名古屋市内でこの道路を実現しただけでも評価すべきだとは思うが、市中心部でこの道路が実現できるならば、名古屋走りなどに代表される車一辺倒のイメージを覆すことが出来るかもしれない。

 

良いことばかり書いたが、デメリットと思われる点もあった。

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竜泉寺街道の跨道橋を渡った先だが、勾配がかなりきつい。自転車はかなりスピードを出すのでは無いだろうか。歩行者混在道路なので、階段にすべきだ。

 

また、通りがかりの女性の方に話しを伺ってみた。

1 自転車はあまり通らない。田舎なので、大人はみな車に乗る。近隣に高校が無いから自転車に乗る学生もいない。

(筆者も、1時間ほど歩いてすれ違った自転車はたった3台。)

2 以前、子供が自転車に乗った男に邪魔だと罵られたことがある。

3 不審者がいたことがある。

事情通の方だったが、ひょっとすると地域で何らかの活動をされているのかもしれない。小学校で懇談会?があると言って先を急がれた。

 

1について、もし仮に、自転車利用者が増えたときのことを想像してみた。歩行者と自転車を分けるのはセンターラインだけ。2の件も合わせると、やはり真ん中に柵かポールを立てるというのは必要かもしれない。

そもそも、この道路は標識どおりに読めば、いわゆる自歩道であって、扱いは歩道になると思われる。つまり自転車は、歩行者優先徐行と言うことになる。自転車の目線で見れば、決して利便性の高い道路とは言えない。自転車の高速走行を許すのであれば、柵等で物理的に分離することは必須であろう。

2の件、どこにでも困った輩はいるものだ。自転車の教育機会や免許制について議論を深めることが急がれる。

 

3の不審者について

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このように、一般道の下をくぐる場所が何カ所かあった。この道路、大人が車依存なので、人通りが少ないのだ。となるとこういった場所では必然的に人の目が届かなくなり、どうしても悪さをしようというものが出てくるのだろう。

 

 

写真を並べて自由に書いてみたが、百聞は一見にしかず。ぜひ現地を訪れていただきたい。車偏重社会に疑問を持つ方には大変お勧めできる。そういう方ほど、この道路を歩いたときの爽やかさや素晴らしさを感じることができるだろう。

 

 

 

 

対極にある安全と自由 そしてクルマが自由で良いという幻想

先日、JR四日市駅のベンチで、タバコを吸っている男性がいた。ホームは禁煙である。

たばこを公共の場で吸ってはいけないと言うルールは、たばこの煙が健康被害を及ぼすものであり、社会的に害であると言う認識が世論として定着したものである。

 

しかし、そのルールが本人にとって害では無い、(害と感じない)のであれば、ルールを守らない。

そういう人間は視野が狭いのである。そしてそういう視野の狭い人間はいくら罰則を強化しようがルールを守ろうとはしない。

 

でも、それで良いのかもしれない。個人の自由は保障されているし、保障は絶対されなければならない。

しかしである。

社会的に危険であったり、害があるのであれば話しは別だ。規制する必要もある。

しかし、法律によって強制的に押さえ込むことは有効なのだろうか?

 

仮に、タバコを吸ってはいけない法律が出来たとしても、おそらく吸う人間は吸うだろう。法律で禁止しているから、警察に言えば取り締まる。しかし、捕まえるまでの間のタイムラグは必ず発生する。また、実際にタバコの煙を吸わされて健康被害が出るまでにはかなり時間があるだろう。

タバコの煙を少し吸ったからと言って即死するわけではないし、臭いという不愉快も我慢しようと思えば出来なくも無い。法律で禁止するとしても、そして守れないやつがいても、困ったやつだ、で済む話しかもしれない。

 

 

しかしだ。クルマは違う。

 

クルマは危険すぎる。ルール違反が即人の命を奪う。死に直結している。

 

もちろんクルマのメリットは大きい。しかし、簡単に命を奪うというデメリットに勝ることが出来るのか?絶対にあり得ない。あってはならない。

 

安全と自由は表裏一体である。

 

法律強化、利便性減少、そしてがんじがらめの保安装置、あらゆる手段を使って自由を奪うべきである。

 

クルマが自由などというのは幻想である。クルマに自由を与えてはならない。

 

 

 

一方通行 自転車のことは置いてきぼり

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住宅街ならどこにでもある一方通行の道。

名古屋では大抵の場合、「自動車・原付」という但し書きがついている。

これは軽車両・自転車には、一方通行は適用されない、と言うことである。

 

で、実際に自転車で自動車一方通行の反対側から走ってみると、おかしなことに気付く。

一方通行を順行で走ると、当然ながら一時停止があって、道路にも「とまれ」と書いてあるし、標識もある。しかし、反対側にはない。(写真の現場は一応停止線?が引いてあるが、新しく舗装した場所のためか、ほかではあまり見ない。どちらにしろ一時停止の標識等はない。)

つまり、自転車には相互通行が許されているのに、その前提での表示等は何もないのである。

交差する側の車両は、自分が一時停止ではないので反対側が止まるつもりで走り込んでくるだろうが、こっちはこっちで一時停止の表示がないので止まらずに走る。非常に危険な状態である。

 

自転車に相互通行を許した状態でありながら、自転車に対する表示が徹底されていない。毎日自転車に乗っている人間なら気付くはずである。これこそ、道路を整備する人間が車目線、車脳であることの証拠であろう。

 

 

 

道路構造に表れる車優先思想

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愛知県日進市内某所

車道に申し訳程度の路側帯があるだけの道路。

車道:歩行者空間の割合は9:1位だろうか?とにかく車を通すことを優先している。

 

TVニュースなどで映る千葉辺りの道路もこんな感じだったような気がする。車目線の発想でなければ歩行者にとってこれほど危険な道路にはなり得ない。

レールの上を走っていない、ハンドルを切れば自由に進路が変わる自動車、トラックがこんなに近い距離で体の横をすり抜けていく。写真では伝わりにくいかもしれないが、そのときの圧迫感、恐怖感を地元の人は感じないのだろうか。もう麻痺してしまっているに違いない。

特に赤ポールの場所などは、側溝分くらいしか幅がない。50cm位だろうか。車いすは恐らく通れないのではないだろうか。これで良く人と接触しないものだ。

 

人間の安全を優先するのか。それとも、安全よりも車をはしらせることを優先させるのか。答えは、この道路を見ればわかる。即ち車優先思想である。

脱AICHIワースト運動における警察とマスコミとメーカーの癒着

 

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これらの記事は、現在愛知県で推進されている「脱AICHIワースト」なる交通安全運動である。

歩行者の反射材着用、ハイビーム定位化、いずれもクルマ目線、車優先思想から生まれたことは明白である。

 

歩行者への反射材着用の強要。

何度も言うが、外へ行くときに誰がいちいち反射材をもって出かけるのか。それこそ外を安心して歩けない、車社会の異常性を表している。

 

ハイビーム定位化。

 

記事中には、対向車がいるときはロービームに切り替えて、ということが書いてある。と言うことは、よっぽどのド田舎でもない限り、ハイビームで走ることは事実上不可能なのだ。

それに、対向車がいたら切り替えると言うが、そこに、歩行者・自転車が眩しいかどうかと言う視点や配慮はない。

当たり前か。クルマの速度を維持したまま歩行者や自転車を見つけようというのだから、歩行者が眩しかろうが知ったこっちゃないと言うことだろう。

と言うことは、やはり基本的にクルマが優先だから、歩行者はクルマの都合に従えと言うことなのだ。

 

しかし、道交法70条において、他者に危害を与えるような運転をしてはならない旨が明記されている。これにはハイビームのまぶしさによる苦痛も当然該当するだろう。

 

恐ろしいのは、これを警察が推進していると言うことだ。法執行機関である警察が、法を無視した施策を平気で訴えている。

 

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前回も書いたが、ハイビーム運転の推進は、トヨタ自動車、メーカーも推進している。

そして、地元紙中日新聞は、なんの疑問も持たず、メーカーも警察も全て正しいと言わんばかりの文面を掲載する。

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これは主催者一覧である。マスコミ、行政、警察、メーカー、言い方は悪いが全部グルである。地域全体で車優先社会を推し進めようとしているのである。

 

まさに自動車全体主義とも言うべき様相を呈している。これでは交通事件の撲滅など夢のまた夢である。