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月一回の四日市は相変わらず車優先

 

小生、月一回は病院通いのためかつての居住地四日市に通っている。

四日市のマナーのひどさは相変わらずであった。

 

なぜそんなにひどいかというと、あまりに車依存が進んでいるために、歩行者の存在が異常に少ないのだ。だから人が歩いているということを予測できないというより、前提ではないのである。みな人の存在をあまり感じずに運転しているのである。だから歩道を横切って店などから出るときも歩道の歩行者に注意を払う車はほぼ皆無だし、なにより車の動きが名古屋に比べてもどこか威圧的に感じるのだ。暴力的ともいうべきか。実際見通しの悪い路地で一時停止側の道路からものすごいスピード感のタイヤ音が聞こえてきたのでさすがにまずいと思ったら、案の定一時停止せずに猛スピードで曲がっていった。まさにキチガイ。反対から車が来ていたら確実にぶつかっていただろう。しかしそんなキチガイなどゴロゴロしているのが四日市である。

 

 

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ここは以前から路側帯妨害、歩行者妨害が常態化している。対向車に気を遣うあまり歩行者への配慮が飛んでしまっているのだ。いや、歩行者が歩くということがほとんどないからこうなるのか。こうなるとミラーに当たろうが突破するしかない。

 

 

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国道1号と23号しかない南北の道路の補完のつもりで整備されたのかもしれないが、平日の昼間でさえこの有様だ。何という無駄。確かに平行する内部線では輸送力の貧弱さは否めないが、需要があれば三重交通もバスを走らせるだろう。自分の足で歩くことをやめ、効率の悪いゴムタイヤで無駄なCO2を吐き出し続けて無駄に時間を浪費する。車から降りればとたんに危険な自動車システムの餌食になるリスクを負う。こんな社会がいつまで続くのだろうか。まあ、そんな愚かな町に見切りをつけて引っ越した部分もないわけでもないが。

 

 

 

 

歩行者に安全確保の責任を押し付ける警察

 

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                             2016/6/25 中日新聞 

 

 スクランブル式の交差点という事は歩車分離式の横断歩道を歩行中という事だろう。男性が渡っている途中で信号が赤に変わってはねられたそうだ。おかしいではないか?スクランブル式で途中に赤に変わってはねられたという事は車のほうからすれば直前まで信号は赤だったはずだ。夜に交通量が少なく、信号待ちをしている車がなかったとしても、遠くから見ていれば赤だったはずだ。であればはねた車は、赤信号を見たが歩行車信号が点滅したのを見て青信号に変わると思い、あまりスピードを落とさずに交差点に差し掛かったのではないだろうか。とすれば、この運転手は、歩行者が渡り遅れたりするかもしれないという想像を全くしていないという事だ。車目線であればそれが普通かもしれないが、歩行者からすれば、なぜそこまで車に配慮しなければならないという思いだ。あくまで歩行者が主、車は従でなければならない。

 

 おかしいのは、この記事にあるように警察の対応だ。何かあるとすぐに歩行者に気を付けろと言う。記事中の警察幹部の談話でも「歩行車信号が赤だと車もスピードを出し、重大な事故につながりやすい」ということだ。なぜそこで歩行者に注意を促すのか。その一方で車のスピードの取り締まりなど全くしない。規制がないのかもしれないが、そうであれば、規制を作ればいいのだ。それができないのであれば、車目線であることの証明という事になる。それはそうだ。この現場の万松寺交差点は、名古屋の秋葉原ともいえる大須を横切る大通り・大津通の交差点であるから、制限速度を下げるという事は車の利便性を損なう事につながる。しかしそれを大半が車利用者である名古屋市民が容認するのはあり得ない。

 しかしそれでは何のために警察は存在するのだろうか?市民の安全を守るのが警察ではないのか?このように歩行者に一方的に注意を促すという事は、歩行者の自由を犠牲にして車の利便性を確保するという偏った施策に見える。市民というのは車利用者だけではない。車に乗らない人間も市民なのである。歩行者に注意を促す前に車に何らかの縛りをかける。それが公平な対応である。

 

 

車目線での自動運転議論の危険性

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                               6/24中日新聞

 

 フランスにおける自動運転に関する調査の記事だが、非自動車利用者である歩行者の目線からは非常に違和感を覚える話だ。

 

「運転中に突然、目の前に歩行者が現れた場合、歩行者を避けて道路わきに衝突するか、歩行者に向けて突っ込むかという状況を想定。歩行車の数や、道路わきにいる別の歩行者の有無、車に家族が同乗しているか否かなど様々な場合を設定し、望ましい行動を尋ねた。」

 

 なぜこんな質問が出てくるのか。歩行車にぶつかりそうになった時に、避けるべきか、否かという話だ。別に自動運転であろうがなかろうが、前に人がいたらよけようとしてハンドルを切るのが普通だ。もし周りにほかの車があったり、何か物があったとしても生身の人間を目の前にしたら、まともな人間なら反射的にハンドルを切るだろう。しかしこの質問では、このようなシチュエーションでハンドルを切るか否かという愚かしい選択肢を提示している。非自動車運転者である歩行者の目線であれば、避けないという選択肢は考えられない。当たり前である。避けてくれなければ自分が死ぬのだから。

 しかしながら調査の結果としては、「自分自身が車に乗る際には、乗員を保護する車を選ぶ」との結果。これこそがまさに車目線である。人間社会での移動の基本が歩行者であるという意識が欠けているのである。鉄道のように線路とそれ以外が明確に仕切られていれば話は別だが、自動車は長距離の高速道路でも、子供が遊び高齢者がのんびり散歩をする住宅街でも、酔っ払いが歩き回る駅前飲み屋街でもどこでも入って行ける存在なのだ。その前提を理解しないのが車社会における車優先意識の最たるものであって、この結果にはそういった意識がにじみ出ているように見える。普段歩いていて車の振る舞いを見ていると、車優先だという運転手の意思を感じることがあるが、それもこの結果が物語っているのではないだろうか。

 

 以上のことから、自動運転車のプログラムの方向性について車運転者に意見を求めるのは危険であると言える。なぜなら、車運転者は車目線でしか語らないからだ。そこに歩行者の目線はない。安全が最優先という意識もない。あらゆる生身の人間の命を守るという意識が欠けている。車目線は所詮車利用者の利便性ありきなのだ。車の利便性を維持・追求する限り、安全の追求は無理である。安全の追求と、利便性という一種の自由は相反する要素だからである。

 

 そもそも歩行者か乗員か?などという疑問が出てくること自体が車ありきだし、それを見出しにする中日新聞の姿勢が、車社会総本山名古屋の新聞であることを物語っている。中日のトヨタ擁護、車目線の姿勢は際立っている。車社会というのはやはり「社会」なのである。住民、行政、警察、マスコミ・・・。

社会全体が自動車に染まり切っているのだ。

車に乗らない者の感覚からすると・・・

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 おそらくこの光景は日本中どこにでもあって、おそらく自動車を日常的に使っている人からすればなんてことはない光景であろう。しかし、車に乗らない人間、車を持っていない人間からすると、全幅10mちょっとと推定されるこの空間に占める自動車の割合のなんと大きいことかと思う。なによりすれ違う道幅いっぱいの大型車の圧迫感たるや凄まじい。ちょっとハンドルを切ってしまったら歩道にいる人間などひとたまりもない。

それに昨今、自転車の車道走行を厳格にしようという動きがあるが、こんな状況でどこを走れと言うのだろう。トラックはよけてくれはするが、安全によけてくれるとは限らない。トラックがタイヤに体が接触しそうな間隔で追い越していくなどという事はしょっちゅうだ。つまりトラック運転手に万が一接触したら殺してしまうかもしれないという配慮などないし、むしろ邪魔だから嫌がらせしてやれと言うくらいの感覚の運転手が多いのではないだろうか。

だからと言って、自転車に大手を振って歩道を走って下さいと言うのも容認できない。もちろん現実にはこんな状況だから、走っても構わないと思うが、いかんせん歩道では歩行者優先で徐行というルールが全く守られていないのだから歩行者的にはかなり迷惑である。実際私もこの道で2回ほど接触された。(2回目はさすがに警察を呼んだ)

 

当たり前を当たり前として考えてしまう事を良しとしない。と考えれば、この道であれば、1車線にすればよいのだ。もしくは大型車は禁止。もっと広い道はあるのだからわざわざここを走らなくてもいいのだ。

 

もっと踏み込んだ提案がある。相互通行を維持したいのであれば、軽自動車専用にしてはどうだろう。おそらく車幅は3分の2くらいになるのではないか。これなら自転車道も作れる。圧迫感もない。車幅が狭いとスピードも出しにくい。

 

妙案だと思ったが、よく考えたらこの道、バス道だった。   合掌

 

北海道警官飲酒運転に思う

 <酒気帯び運転容疑・警官2人逮捕>車で酒席へ「確信犯」 北海道 (北海道新聞) - Yahoo!ニュース

バーベキューに行くのに車で出かけて飲酒の上カラオケまではしごして乱痴気騒ぎで事故を起こしたという事だが、若い警察官ならそれが重大な犯罪であるということを警察学校で学んで間もないと思うのだがどういうことなのだろう。昨年、砂川で飲酒暴走殺人事件があったが、北海道で飲酒運転の事件が無くなった印象は薄い。そして今回の警官の事件。警官でありながら飲酒前提のパーティーに車で出かけたというのは、飲酒運転が生活の一部として根付いていて、それが常識になってしまっているのではないかと思う。そこに法規範など存在しないのだ。それは飲酒以外でもある光景だ。たとえば、歩道駐車。これは完全に違法行為だが、現実には常識になって常態化している。

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当地の飲酒運転も似たようなものではないのだろうか。明文法より慣習が優先している。つまり、本当はなんとなくやっちゃいけないのは分かってるんだけど、みんなやってるし、まいっかー、という感じではないだろうか。法規範など存在しない。だから法執行機関たる警察官でも関係ないのだ。

車社会は現実的に法規範が形骸化している。飲酒、横断歩道手前徐行、一旦停止、制限速度・・・ あげたらきりがないが、鉄道等公共交通に比べてきっちり守られている項目は皆無である。しかも甘いことにこれらは、自動車で犯したとしてもすべて違反。しかし鉄道ではすべて事故扱いである。

 

飲酒に関していえば、車で行かなければならない事情もあるだろう。おそらく公共交通が脆弱という事だ。だから声高に飲酒運転撲滅と言っても足が無ければなかなか浸透しない。だから、環境整備という事で公共交通を整備することが一つの策であることは明らかなのだが、国鉄民営化以来の公共交通衰退策のおかげでそれもままならない。自動車の害悪は、自動車が基幹産業であり移動手段であるという国民生活にあまりにも深く根付いた車依存社会の構造を根本的に変えなければならない問題だ。もちろん飲酒運転もその害悪の一要素である。

 

車社会の空気

 

今日は1時間くらい中村区黄金界隈を歩いたが、相変わらずの歩道駐車に出くわした。それに、この辺りは道が狭く、一本入れば住宅地の趣だが、みなよく飛ばす。

歩道駐車やスピードの速い車を見ていて思うが、車を運転する人間は、運転するときにどれだけ法律を意識しているのだろう。鉄道の運転士であれば、何をするにも指差喚呼で、速度も信号の現示の種類によって決まっているが常にその速度よりやや低めで走る。さもなければATSで非常停止してしまう。

クルマの運転ではどうだろう。自分の車の速度を常に把握しながら運転しているのだろうか。自分が現在走っている道路の最高速度を把握して走っているのか。そもそも速度を守るという意識をもって走っているのだろうか。もっと大きく言えば、道路交通法を守って走ることを意識している人間はいるのだろうか。とどめでいうと、道路交通法を理解している運転手はどれだけいるのだろうか。

クルマの運転手はほとんど皆、法律とは違う社会の空気を感じて運転しているのだと思う。周りがこういう運転をしているから。まわりがやっているから許される。これは車の運転に限ったことではない。日本人の特性として空気を読むとか、雰囲気に流されるとか言われるがまさにそれだ。違法駐車がそれをよく表している。広い歩道で、歩道に止めても一応歩行者が通れるから誰も何も言わないだろう。住宅地の路側帯なら人通りも少ないから止めてもいいだろう。こういうときの判断基準は法ではなく、周りの目なのだ。

クルマのマナーが守られないのは、自動車の運用が実質的に法ではなく、社会の空気で行われているという事だ。日本は間違いなく車社会である。仕事、経済、移動手段、すべてにおいて自動車は主役になってしまっている。おそらく、東京以外では車を持っていない大人のほうが少数派だろう。日本人の大多数の頭の片隅に常に車がある。だから車に対して甘い考えになるのは当たり前と言えば当たり前なのである。

車社会は一つの全体主義のであり、ファシズム的なのだ。

 

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車目線の恐怖

今日は久しぶりに自転車に乗った。

 

車に乗る人間の目線たるやおそろしい。今日だけで5,6回は1m未満の距離ですれ違ったのは間違いない。

 

自動車運転者が自転車を追い抜くとき、すれ違う時、どんな気持ちで追い抜くのだろう。邪魔だという気持ちか。それとも余裕はあんまりないけどぶつからずにすり抜ければいいという感覚か。どちらにしても、自転車側が死の恐怖を味わうことに変わりはない。そう意味では無意識にぎりぎりですれ違っていくほうがタチが悪いか。自分が人に恐怖心を味わわせていることに気づいていないのである。車を降りれば優しい人が、そのやさしさのまま知らないうちに人を死の危険にさらしているのである。これは車社会の異常性の一面である。年間4000人以上が死んでいるのに何も変わらないのである。当然と言えば当然だ。その優しい人たちだって、テレビで事故で人が死んだニュースを見ればかわいそうだとおもうだろう。しかし、かわいそうで終わりなのだ。自分が人を危険にさらしているという事に気づいていないのだ。これがまさしく車社会の異常性。車という鉄の壁に囲まれて、運転席の目線だけでものを考えている。思考がマヒしている。恐ろしい世界だ。