車目線での自動運転議論の危険性

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                               6/24中日新聞

 

 フランスにおける自動運転に関する調査の記事だが、非自動車利用者である歩行者の目線からは非常に違和感を覚える話だ。

 

「運転中に突然、目の前に歩行者が現れた場合、歩行者を避けて道路わきに衝突するか、歩行者に向けて突っ込むかという状況を想定。歩行車の数や、道路わきにいる別の歩行者の有無、車に家族が同乗しているか否かなど様々な場合を設定し、望ましい行動を尋ねた。」

 

 なぜこんな質問が出てくるのか。歩行車にぶつかりそうになった時に、避けるべきか、否かという話だ。別に自動運転であろうがなかろうが、前に人がいたらよけようとしてハンドルを切るのが普通だ。もし周りにほかの車があったり、何か物があったとしても生身の人間を目の前にしたら、まともな人間なら反射的にハンドルを切るだろう。しかしこの質問では、このようなシチュエーションでハンドルを切るか否かという愚かしい選択肢を提示している。非自動車運転者である歩行者の目線であれば、避けないという選択肢は考えられない。当たり前である。避けてくれなければ自分が死ぬのだから。

 しかしながら調査の結果としては、「自分自身が車に乗る際には、乗員を保護する車を選ぶ」との結果。これこそがまさに車目線である。人間社会での移動の基本が歩行者であるという意識が欠けているのである。鉄道のように線路とそれ以外が明確に仕切られていれば話は別だが、自動車は長距離の高速道路でも、子供が遊び高齢者がのんびり散歩をする住宅街でも、酔っ払いが歩き回る駅前飲み屋街でもどこでも入って行ける存在なのだ。その前提を理解しないのが車社会における車優先意識の最たるものであって、この結果にはそういった意識がにじみ出ているように見える。普段歩いていて車の振る舞いを見ていると、車優先だという運転手の意思を感じることがあるが、それもこの結果が物語っているのではないだろうか。

 

 以上のことから、自動運転車のプログラムの方向性について車運転者に意見を求めるのは危険であると言える。なぜなら、車運転者は車目線でしか語らないからだ。そこに歩行者の目線はない。安全が最優先という意識もない。あらゆる生身の人間の命を守るという意識が欠けている。車目線は所詮車利用者の利便性ありきなのだ。車の利便性を維持・追求する限り、安全の追求は無理である。安全の追求と、利便性という一種の自由は相反する要素だからである。

 

 そもそも歩行者か乗員か?などという疑問が出てくること自体が車ありきだし、それを見出しにする中日新聞の姿勢が、車社会総本山名古屋の新聞であることを物語っている。中日のトヨタ擁護、車目線の姿勢は際立っている。車社会というのはやはり「社会」なのである。住民、行政、警察、マスコミ・・・。

社会全体が自動車に染まり切っているのだ。