歩行者に安全確保の責任を押し付ける警察

 

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                             2016/6/25 中日新聞 

 

 スクランブル式の交差点という事は歩車分離式の横断歩道を歩行中という事だろう。男性が渡っている途中で信号が赤に変わってはねられたそうだ。おかしいではないか?スクランブル式で途中に赤に変わってはねられたという事は車のほうからすれば直前まで信号は赤だったはずだ。夜に交通量が少なく、信号待ちをしている車がなかったとしても、遠くから見ていれば赤だったはずだ。であればはねた車は、赤信号を見たが歩行車信号が点滅したのを見て青信号に変わると思い、あまりスピードを落とさずに交差点に差し掛かったのではないだろうか。とすれば、この運転手は、歩行者が渡り遅れたりするかもしれないという想像を全くしていないという事だ。車目線であればそれが普通かもしれないが、歩行者からすれば、なぜそこまで車に配慮しなければならないという思いだ。あくまで歩行者が主、車は従でなければならない。

 

 おかしいのは、この記事にあるように警察の対応だ。何かあるとすぐに歩行者に気を付けろと言う。記事中の警察幹部の談話でも「歩行車信号が赤だと車もスピードを出し、重大な事故につながりやすい」ということだ。なぜそこで歩行者に注意を促すのか。その一方で車のスピードの取り締まりなど全くしない。規制がないのかもしれないが、そうであれば、規制を作ればいいのだ。それができないのであれば、車目線であることの証明という事になる。それはそうだ。この現場の万松寺交差点は、名古屋の秋葉原ともいえる大須を横切る大通り・大津通の交差点であるから、制限速度を下げるという事は車の利便性を損なう事につながる。しかしそれを大半が車利用者である名古屋市民が容認するのはあり得ない。

 しかしそれでは何のために警察は存在するのだろうか?市民の安全を守るのが警察ではないのか?このように歩行者に一方的に注意を促すという事は、歩行者の自由を犠牲にして車の利便性を確保するという偏った施策に見える。市民というのは車利用者だけではない。車に乗らない人間も市民なのである。歩行者に注意を促す前に車に何らかの縛りをかける。それが公平な対応である。