対極にある安全と自由 そしてクルマが自由で良いという幻想
先日、JR四日市駅のベンチで、タバコを吸っている男性がいた。ホームは禁煙である。
たばこを公共の場で吸ってはいけないと言うルールは、たばこの煙が健康被害を及ぼすものであり、社会的に害であると言う認識が世論として定着したものである。
しかし、そのルールが本人にとって害では無い、(害と感じない)のであれば、ルールを守らない。
そういう人間は視野が狭いのである。そしてそういう視野の狭い人間はいくら罰則を強化しようがルールを守ろうとはしない。
でも、それで良いのかもしれない。個人の自由は保障されているし、保障は絶対されなければならない。
しかしである。
社会的に危険であったり、害があるのであれば話しは別だ。規制する必要もある。
しかし、法律によって強制的に押さえ込むことは有効なのだろうか?
仮に、タバコを吸ってはいけない法律が出来たとしても、おそらく吸う人間は吸うだろう。法律で禁止しているから、警察に言えば取り締まる。しかし、捕まえるまでの間のタイムラグは必ず発生する。また、実際にタバコの煙を吸わされて健康被害が出るまでにはかなり時間があるだろう。
タバコの煙を少し吸ったからと言って即死するわけではないし、臭いという不愉快も我慢しようと思えば出来なくも無い。法律で禁止するとしても、そして守れないやつがいても、困ったやつだ、で済む話しかもしれない。
しかしだ。クルマは違う。
クルマは危険すぎる。ルール違反が即人の命を奪う。死に直結している。
もちろんクルマのメリットは大きい。しかし、簡単に命を奪うというデメリットに勝ることが出来るのか?絶対にあり得ない。あってはならない。
安全と自由は表裏一体である。
法律強化、利便性減少、そしてがんじがらめの保安装置、あらゆる手段を使って自由を奪うべきである。
クルマが自由などというのは幻想である。クルマに自由を与えてはならない。