名古屋走りのまやかし

 

 

「名古屋走り」という言葉がある。

名古屋特有のルール無視、悪質な自動車のマナーを揶揄する言葉だ。

 

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以上は、ウィキペディアの引用なので正確性は疑わしい。信号無視のくだりの交通工学者の意見などは、ホントか?と言いたくなる。

しかし、別に法律用語ってわけでも著作権の絡みもないのでとりあえずこれを基準に考えるとする。

 

なぜ、「名古屋走り」という言葉ががまやかしか?

当ブログでは歩行者目線で考えることを旨としているが、歩行者目線で考えた場合、「歩行者軽視」「駐車方法」という項目に目が行く。

私は月一回は以前住んでいた四日市へ行く。四日市という町は、極度の車依存で、学生が出歩く時間帯以外は自転車も歩行者も異常に少ない。恐らく東京の人からは想像も出来ないだろう。生身の人間を目にすることがとにかく少ない。恐らくそのせいだと思うが、歩行者の存在が、車の運転手の頭から抜けているように感じられるのだ。だから、自然に車優先という感覚になるのでは無いかと思う。

「歩行者軽視」の項の歩行者がいても無視して止まらず進む、と言う部分。

名古屋でも確かにないこともないが、全体的な印象としては、四日市の方が遙かにひどい。簡単に言うと、名古屋車は、「横断しようとする歩行者がいたら歩行者優先」という法律が頭に入っている印象で、渡ろうともしてない、別に行っても良いんじゃない?と思うくらい手前から止まる車もいる。

かたや四日市。こっちが完全に横断歩道に踏み込んでいるタイミングでも平気で通る。スレスレでも通る。明らかに車優先だと思い込んでいる。

「駐車方法」の項の歩道駐車は、名古屋も四日市も同じ。

また、四日市の住宅街などの道路は名古屋に比べると圧倒的に狭い。恐らく、戦時中に名古屋ほどの広範囲な空襲を受けておらず、車を想定していない古くからの道がそのままなのだろう。それにもかかわらず、隘路でも猛スピードを出す車が多い。この恐怖感は名古屋より確実にひどい。

 

少なくとも歩行者の視点からいえば、四日市の方がはるかにマナーが悪いと感じる。

これは四日市だけではないのではなかろうか?四日市は、市内南部には、かの軽便鉄道、あすなろう鉄道が走っており、バス網もある。にもかかわらず極端な車依存の状況ということは、大都市周辺の中小規模の町はどこも同じような状況ではないのだろか。おそらく全国の、少なくとも四日市と同規模の町は似たような状況だと推測できる。

とすれば、名古屋の交通マナーがほかより悪いと言う意味の「名古屋走り」という言葉は間違いということになる。歩行者目線でいえば、むしろ名古屋よりもほかの町の方がひどいと言うことが現実にあるのである。

 

だから、「名古屋走り」という言葉はまやかしなのである。名古屋だけ特別マナーが悪いとする風潮は危険だ。

 

「自転車道」整備の功罪

 

 

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上の二枚の写真は、名古屋市内のいわゆる自転車歩行者道、通称「自歩道」というものだ。

名古屋市自転車道整備の手法の一つらしいが、こんなものが眉唾物だと言うことは現場を見れば解る。

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 自転車通行帯は、自転車置き場に成り果てている。しかも諸悪の根源の植え込みが必ずある。これで自転車がスムーズに走れて、歩行者の安全が確保されると思っているのだろうか?結局、道交法の「自転車が例外的に歩道を走行するときは車道寄りを走行」という規定を視覚的にはっきりさせただけなのだ。これでは今までの自歩道と何も変わらない。むしろ自転車の歩道走行に免罪符を与えるようなもので、かえってタチが悪い。

これは自転車道では無い。「自歩道」、つまり歩道なのだ。自転車は徐行。これを考えた人間が自転車に乗らない人間だというのは簡単に想像できる。

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恐ろしいことに、この現実をもって、自転車通行空間の整備が終了したということにされてしまっているのだ。さすが自動車優先の街 名古屋の真骨頂と言うべきか。

上の写真もそうだが、名古屋市内の幹線道路は2車線どころか、3車線のところがかなり多い。一車線つぶして自転車道にすると言う発想は出来ないのだろうか。

既存の歩道スペースに手を加えて、さも整備しましたと言わんばかりの整備状況。自動車の利便性は絶対に譲らない、自転車と歩行者は従来のスペースに押し込めておけば良い、こうしておけば、昨今の自転車事故を何とかしろという世論に対して無策であるというそしりを受けることを回避できる、という名古屋市のメッセージであるのは明らかだ。

 

自転車道整備の功罪、「罪」ばかりで「功」がない政策など、まっぴらごめんだ。

自動車は普通の人を脅威に変える

 

 

障害者は国家のお荷物だというネオナチまがいの犯罪者によって何の落ち度も無い人々が虐殺された。

 

右翼思想がはびこり、右翼政党が政権を担う現在の日本では、このような弱者切り捨ての考えで殺人が起こった殺人が起こることは、憤りを感じこそすれ、驚くと言うものでもない気がする。右翼系の人間には、差別を肯定するような攻撃的で排他的な雰囲気が感じられるからだ。

逆に、介護関係、福祉関係の人たちは、弱者に寄り添う優しい気持ちを持っているのだと思う。相手を思いやるから、痛みを理解しようとする想像力を持っていると言うことだろう。

 

しかしだ。自動車にはそんな優しい人を知らず知らずのうちに攻撃的にしてしまう可能性がある。

 

介護施設の車が、安全に配慮した、生身の人間であり、弱者である歩行者や自転車に配慮した運転をしているかというと、そうは見えない場合が多い。

 

今日も四日市を歩いたが、歩道の無い道が多いこの町を歩くと、ほとんどの車が、歩行者である私とぎりぎりの距離を、スピードを落とさずに走り抜けていく。

そう言った車の運転手が、みんないかにも強面の人間ばかりかというと、そんなことは無い。優しそうなおばちゃんやお姉さんが涼しい顔をして私のすぐ横を駆け抜けていく。恐らくこの人たちは、1トン以上ある鉄の箱が自分の体の横をすり抜けていくときの感覚を想像できないのだろう。

 

普通のご近所さんでも、介護、福祉をする人たちでも、自動車という鉄の部屋の中で、自動車の目線で物事を見ることに麻痺して、外の人の恐怖心に想像力が至らない。普通の人を、弱者への脅威を与える存在にしてしまう。

自動車はやはり害悪だ。

 

 

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無法者の郵便ポスト

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路側帯は歩道と同じく、歩行者のために区切られた安全地帯である。特に二重線路側帯は、自動車の駐車も禁止された手厚い物であるが、この郵便ポストはそれをあざ笑うかのごとく歩行車の前に立ちはだかる。これでは路側帯に平気で止める反知性人間たちに、路側帯は車を止めてはいけないと言えなくなってしまうではないか。

歩道駐車 通報すべきか否か

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名古屋市東別院付近のインド料理屋の前

相変わらずの歩道駐車。通報すべきか否か。非常に迷った。

・まずこの歩道はいわゆる自歩道で、区別をはっきりさせるために舗装を真ん中で変えている、名古屋市ではよくある自転車レーン。その自転車レーンを完全に塞いでいる。

 

なぜ迷ったか。

若宮大通などの広い歩道では歩道駐車は常態化しているが、広すぎて邪魔にはならない、つまり、他の交通の妨げにならないので、通報する理由としては弱くなる。

・ただ、この場合では自転車レーンを塞いでいるという意味では悪質。

・しかしだ。自転車レーン部分を走行している自転車が少ない。自転車がルールを守っていない。

・となると、完全に塞いでいるわけでもないし、110番通報するにはなんとなく迷いが生じる。

・しかも飲食店前なので、すぐに食事を終えて警察官が到着するまでの数分で逃げられる可能性が高い。

結局通報できずに立ち去って100mほど過ぎて振り返ったら(1,2分後)もう車はなかった。食事が終わったのか、それとも私が写真を撮ったり車を見たりしていたからまずいと思ったのかはよくわからない。

 

違法なのは解っている。しかし、歩道駐車があまりに蔓延しすぎていて、きりがない。これで、東京や、名古屋でも大須、栄界隈のように、歩行者であふれかえっていれば通報するのに抵抗感はない。しかし人通りがそんなにないところでは、人が実際に迷惑を感じないのであれば、通報したところで、大義がないのだ。しかしそれでも、違法であるのは間違いないのだ。頑固者になりきって通報するか。それとも現実を考えて行動するか。なかなか答えは出ない。いつまで私は悶々とした日々を送るのだろか・・・

 

 

旧名古屋市営 下之一色線廃線跡を歩く

 

名古屋市中川区にはかつての市電、名古屋市営下之一色線が走っていたそうで、今日はそこを歩いた。と言っても今回は2回目で、前回途中で道を間違えて行けなかったところに再チャレンジ。

下之一色線はほとんどが専用軌道だったようで(普通の電車と同じで砂利に線路敷き)、基本的に縦横に道路が走っている中川区内のなかで、明らかに斜めで不自然な空間が広がっている。

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しかしなぜか、極端に歩道が広く、幅1.5m程の植え込みが作られているという名古屋で割と見られる道路構造がここでも展開する。いつも思うが、この植え込みを自転車道にしようとは思わないのだろうか?私は街路樹という物がこの上なく無駄に見える。見た目には結構だが、おそらく維持管理費はかなりかかるだろうし、そもそも道路という人間の通行空間に樹木を並べる必要がない。ただでさえ狭い日本の道路環境を更に狭くしている。木なら公園に生やせば良い。陰を作るという理由なら、所々にバス停の屋根のような物を植え付ければ良い。あれならそれ程邪魔にはなるまい。

 

 

 

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ここは完全に歩行者専用となっている。まさに天国、と言いたいところだが、ここでも又植え込み。これは必要か?ここも真ん中で柵をして、半分歩行者、半分自転車でもよいと思うのだが。ただこの道路、短いのであんまり言う気にもなれない。いずれにせよ、車のない道路ほど気持ちのよい物はない。

 

 

 

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国道23号。まあしかし、自動車というのは効率の悪い物だとつくづく思う。この行列に人間はどれだけいるのだろう。f:id:teichang:20160710170858j:plain

ネットでこんな画像が有ったけど、この通りだとすると、上の23号も、おそらく電車数両分の人間くらいしかいないということになる。現代の3連接LRTとかなら、高頻度運転すれば余裕で運べるだろう。

かつては名古屋市内にネットワークを張り巡らした市電、今も存在していればとつくづく思う。会社の大先輩は市電で通った経験を話していたが、当時の混雑は、正にすし詰め状態で、極度の混雑が常態化していたらしいが、現代の連接LRTで、髙需要ならさらに長い編成を作ることも出来るだろう。それにかつて市電が存在していたころは、地下鉄もまだ今ほどは延伸していなかった。それを考えれば、今の地下鉄網と当時の市電網を組み合わせれば、かなりの輸送力になるだろう。(市電と地下鉄は一部路線が重複)

とはいえ、車依存を根本的に変えなければなかなか変わるのは難しいだろう。

 

と言うことで、市電跡をめぐって、少しむなしさを感じたのでした。

車社会の面々

 

 去る6/29、国交省主催の自動車安全シンポジウムというものに出席した。

サブタイトルは交通事故のない社会を目指した今後の車両安全対策のあり方についてということで、車両側からの交通事故対策という趣旨、つまりメーカー技術者のためのシンポジウムだ。自分は単なる興味本位だったが別に問題はないということで様子を見に行った。いわゆる産官学の雰囲気というものに少し興味があったのである。

 

いわゆるパネリストは、東大の人間工学の教授、JAFの幹部、モータージャーナリスト、日本自動車工業会(メーカー団体)名大の機械工学の教授、そして国交省自動車局幹部。

最初に道路交通の現状の説明があった。

興味深いものとしては

・地方を中心に公共交通が衰退し、自家用車の利用率が高い

・人口減少局面にあっても乗用車の保有台数はまだ増加している。

・歩行者の死者数の減少幅が小さくなっている

・諸外国に比べて歩行中と自転車乗車中の死者の割合が高い(計51.4%)

・H27年度に交通事故死者数が15円ぶりに増加

 

ここまでのデータ的な中身は勉強になった。特に歩行者と自転車の犠牲について言及がしっかりされていたのは有意義であった。

 

しかしここからの議論が車目線を露呈しまくった。特にひどかったのがモータージャーナリストの岩貞るみこ氏だった。ここまでの講演の流れとして歩行者にも有益な自動ブレーキや衝突回避の話で来ていたのに、氏が話し出したのは、

「子供を守りたい。しかし現実的に車両の技術での対応は限界がある。警察は歩行者と自転車にルールを守らせるべきだ」

いったい何なんだという感じだ。ものすごい矛盾じゃないか。その歩行者と自転車に子供も含まれるのだ。警察のアイコンタクトと同じだ。子供にルールを守らせると言う暴論。無邪気で自由な幼子にルールを守らせるなど無理に決まっているではないか。少なくとも自動運転や数々の安全装置の開発は子供だけでなく、人間が完璧でない存在であるということが前提にあってやっていることであろう。そしてこのシンポジウムはそう言った開発者のためのシンポジウムのはずだ。それなのにルールを守らせろとはこの人はいったいここへ何をしに来たのだろうと思うし、とんでもない車目線である。

 

そのほかにも、母親たちはなぜチャイルドシートをさせないんだとか、さらには軽やコンパクトカーがパッケージ優先で安全なドライビングポジションが取れなくなってるとか。はっきりいったどうでもいい話だ。車に乗ってない人間の死者が多いという話があったあとでこういう話になるのが理解できない。ドライビングポジションなどブレーキとハンドルにとりあえず届いていればいいではないか。ちょっと運転しにくい方がスピードを出すのも億劫になるだろう。少なくとも遵法運転をするのであればそれほど操作に神経質になる必要はないはずだ。なにせ法の通りに走ればスピードが遅いからだ。それにチャイルドシートをしていれば死を免れるなどというのは勘違いもいいところだ。トラックに前後を挟まれて潰されたらチャイルドシートごとミンチになってしまう。そもそもの自動車システム自体が危険であるのにシートベルトやチャイルドシートの議論がここで必要なのか。この岩貞という人だけでなく、自動車評論家という連中の意識の低さには以前からうんざりだったが、車目線(当たり前か)であまりに軽薄な話には心底不愉快な気分になった。

 

車目線で不愉快といえば、自動車工業会の人が、

「道交法では夜間は他の車両等と行き違う又は直後を侵攻する場合を除き走行ビーム(=ハイビーム)をつけなければならないとされている」と発言し、また配られた資料に記してあったことだ。

私は以前から、ハイビームの積極活用の呼びかけに憤りを感じてきた。夜間に歩行者がはねられるのは暗くて歩行者が見えにくいと言う理由だろうが、これはまさに車目線であり、車利用者の横暴である。

暗くて見えないなら、確認できるスピードで走ればいいだけである。見えなければ止まる。走らない。それだけだ。

小生法律は素人なので、弁護士ドットコムで専門家の意見を聞いてみた。その結果、

国土交通省令に「道路運送車両の保安基準」というものがあり、その32条で、走行用前照灯とすれ違いよう前照灯が規定されている。

 

道交法第52条第1項

「車両等は、夜間(日没時から日出時までの時間をいう。以下この条及び第六十三条の九第二項において同じ。)、道路にあるときは、政令で定めるところにより、前照灯、車幅灯、尾灯その他の灯火をつけなければならない。政令で定める場合においては、夜間以外の時間にあつても、同様とする。」

道交法第52条第2項

 「車両等が、夜間(前項後段の場合を含む。)、他の車両等と行き違う場合又は他の車両等の直後を進行する場合において、他の車両等の交通を妨げるおそれがあるときは、車両等の運転者は、政令で定めるところにより、灯火を消し、灯火の光度を減ずる等灯火を操作しなければならない。

 

つまり、1項の前照灯=ハイビームで、2項の光度を減ずる等灯火を操作しなければならないと言うのがロービームであるから、ハイビームが基本であると解釈できると言うことだ。なんだ法律でもハイビームが基本ってことになってるのかとがっかりしたら、まだ答えの続きがあった。

 

道交法第70条

「車両等の運転者は、当該車両等のハンドル、ブレーキその他の装置を確実に操作し、かつ、道路、交通及び当該車両等の状況に応じ、他人に危害を及ぼさないような速度と方法で運転しなければならない。」

 

歩行者が幻惑して前が見えないような様子でハイビームにするのは不適切であるとの回答だった。

以上のことから、ハイビームが基本であると法的に義務づけられているというのは無理がある。

このように法律を都合のいいように解釈してプロジェクトを推し進めようとするのは昨年の戦争法制定の過程でも見られたが、実際に似たようなことが小規模であれ、身近で目の当たりにするとは思いもしなかった。やはり企業や役所が一緒になって何かやろうとする時、疑ってかかることが大事だと思い知らされた。それが解っただけでも収穫とすべきか。